専門家コラム

【052】 化学プロセス設計開発とアンモニア

小林 幸博

 アンモニア業界を取り巻く環境は一昨年から今年にかけて激変しました。その発端は2020年10月の菅元首相の所信表明演説で打ち上げた「カーボンニュートラル宣言」と、その2ヶ月後の12月に当時の経産省諮問機関・総合エネルギー調査会の基本政策分科会から提案されたアンモニアと水素のエネルギー源としての活用でした。

 近年、欧州を中心に化石燃料から再生可能エネルギーへと大きく舵を切っていましたが、2021年の欧州における電力事情の切迫から天然ガスのコストが大幅に上昇し、天然ガスを原料とする安価なアンモニアの安定的供給が困難な状況になっていました。そこに追い打ちを掛けたのがロシアのウクライナ侵攻で、欧州・米国そして日本への影響は地政学的なリスクと相まって、アンモニア由来の肥料(尿素など)価格も上昇しています。そのため水電解からの水素と空気分離による窒素を合成して出来るグリーンアンモニアの重要性が日を追うごとに増しています。
 化石資源を原料とするブルーアンモニア*1やグレーアンモニア*2と違い、グリーンアンモニアではガス化設備やガス精製設備が不要となりアンモニア合成設備のみに簡素化される*3ので、相対的に水電解設備の比重が大きくなってきます。そのため技術面でプラントビジネスを牽引していたアンモニアプロセスのライセンサーの地位は相対的に低下することになるかもしれません。

*1 ブルーアンモニアは化石資源を原料としたアンモニアで、CO2は大気中に放出します。
*2 グレーアンモニアはブルーと同じく化石資源を原料としたアンモニアですが、CO2は大気中に放出することなく、回収して再利用するか地中に埋めることになります。
*3 ブルーやグレーアンモニアプロセスには少なくても8基の反応器が必要ですが、グリーンアンモニアでは1基の反応器(合成反応器)だけですみます。

 私が勤務していた東洋エンジニアリング株式会社(以後、TOYOと称す)では、1961年の創立以来、約90基のアンモニアプラントを建設してきました。入社した1975年は、旧ソ連・旧東ドイツ・中国などの旧共産圏向けのプラントのフェーズが建設から試運転と変わる段階で、プロセスエンジニア(約20名)のほとんどが、試運転要員として海外に出張していました。当時、1基のアンモニアプラントの試運転には20人以上が必要でしたので、TOYOだけでは足りず、親会社であった旧三井東圧化学株式会社(現三井化学株式会社)などの国内のアンモニアメーカーに協力を依頼し、何とか人員を確保することが出来ました。

 私が最初にアンモニアの臭いを嗅いだのは1979年の灼熱のインドで、アンモニア・尿素の肥料プラントの保証運転補助(主に運転データの採取)を目的にした出張でした。このプラントでは原料に重質油を使い、空気分離からの酸素を使ってガス化し、得られた水素と空気分離からの窒素を合成することでアンモニアを製造していました。滞在中、ガス化炉のスタートアップや林立するガス精製塔に目を丸くした思い出があります。このプラントに必要な電力は石炭火力発電所から供給されていたのですが、雨期による河川の氾濫から石炭の貨車輸送が滞ったために停電せざるをえず、復旧の目処が立たなかったために3週間足らずで帰国することになりました。

 帰国後、旧ソ連のアンモニアプラントの試運転要員として出張することが決まり、運転マニュアルの講義を2ヶ月弱受けて出国しました。このアンモニアプラントの生産量は1,360MTPDで、アンモニア合成は旧Kellogg(現在のKBR)の技術を採用していました。合成圧力が330気圧と高く、駆動用スチーム圧力も100気圧を超えていたために、コンプレッサールームを巡回する際には若干恐怖を覚えたものです。1979年の11月末に保証運転を終了して帰国しましたが、滞在中に一生の宝となったお土産を持ち帰ることが出来ました。それは私たち日本人が滞在していた部屋で見つけた資料で、過去にアンモニアプラントに派遣されたKelloggの運転指導員が作成したプロセス全体の物質収支の手計算書でした。後述するメタノール増産の保証運転でコンピューターがダウンして、ロギングデータの入手が出来なかった際にも、運転日誌の運転データとガス分析結果を見ながら物質収支と原単位を計算し、それをもとに報告書を作成提出して性能保証運転をクリアーすることが出来ました。当時はパソコンがなかったので、ひたすら電卓を使って計算していました。

 その後、TOYOでのアンモニアプロセスの大型化(当時とした最大の3,000MTPD)や、旧Kellogg社が開発したアンモニアの省エネルギープロセスの解析に携わり、プロセスの改良開発の進め方やノウハウについて習得することが出来ました。例えばアンモニアプロセスの性能向上(原単位改善)のためには低圧合成が鍵となります。しかし、低圧合成では合成ガスを冷却してアンモニアを回収出来る適切な冷媒がないので、別な回収方法(アンモニア吸収法など)を検討しなければなりませんでした。また、低圧合成によりエネルギー消費量は減少しますが、原燃料原単位の改善に結びつけるためには種々の省エネ技術を採用する必要がありました。
この時の経験はメタノールプロセスの改良開発にも生かすことが出来、1990年から1992年に掛けて進めた新型メタノール合成反応器の開発成功に繋がることになりました。なお、新型メタノール合成反応器(MRF-Z *4)の開発に対しては、「新型反応器MRF(多段間接冷却型)によるメタノール製造の工業化」で1996年の石油学会技術進歩賞を受賞しています。

*4 MRF-Z:MRFは “Muti-stage Radial flow Reactor” の略で、Zは最終バージョンを意味している。

 もう一つ忘れることが出来ない経験はトリニダード・トバコのメタノールプラントです。このプラントは設計から建設、そして試運転までTOYOが本格的に取り組んだメタノールプラント(生産量は1,200MTPD、合成圧力は8MPa)で、私にとっても初めて本格的にプロセス設計に携わることが出来た案件でした。初めて現地にサイト・インしたのは1983年の夏で、ちょうど受電(正式に外部電源から電力を受け入れる)のタイミングでした。

 順調に進めば翌年の3月には帰国できたのですが、それが予想外の出来事で滞在期間はさらに3ヶ月も延びました。その1つが客先のイギリス人コンサルタントから突きつけられたHAZOPレポートでした。そこには数百件の設計に関する懸案事項が記載されており、対策を含めた回答を半年後に迫った保証運転前に提出することを要求されました。当時、TOYOでもHAZOPについて知っていたエンジニアも皆無で、関連するCODE & STANDARD(ASMEやAPIなど)を含めた欧米のエンジニアリングスタンダードの洗礼をまともに受けることになりました。さらに全く予想もしなかった廃熱ボイラー(高圧スチーム発生の主要機器)のトラブルが発生し、その原因究明と対策協議のために現地サイトからドイツメーカーの本社がある旧西ベルリンへ出張し、すべての責任がドイツメーカーにあることを認めさせて対策をとらせたのも、今となってはかけがえのない経験になりました。そうこうするうちに滞在日数が1年を超えて労働協約に触れたために、半年後の保証運転には立ち会うことなく帰国しました。

 この二つの出来事の背景には私のプロセスエンジニアとして未熟さがありましたが、一方、問題解決の手順を否応なく学ぶことで、プロセスエンジニアとして大きく成長する引き金にもなりました。商業運転に移行した後も客先要望を受けて現地サイトを訪問し、運転やメンテナンスで発生したトラブルの原因究明と改善策を練ってきました。この間に客先との信頼関係が熟成し、新型メタノール合成反応器の採用を前提としたメタノール増産プロジェクトを締結することが出来ました。

 1996年に21年間の勤務を経てTOYOを退職して、有限会社コムテック・クウェストを立ち上げ、現在に至るまで曲がりなりにもプロセスエンジニアとしてやってこられたのは、それまでの挫折と経験が糧になったようです。独立するにあたりモットーとしたのは、「依頼された仕事は未経験でも、徹底して深く検討すれば客先要望に応えることが出来る」、「客先の要望を先取りして、120%以上の成果を出す」、そして当たり前のことですが、「嘘はつかない」の3点です。

 独立後に携わってきた110の案件の中には、産業廃棄物を原料としたガス化装置やバイオマスを原料とした水素およびメタノール製造装置の設計、原子力有効熱利用による水素製造装置の基本設計、燃料電池用の小型水素製造装置の基本設計および詳細設計・製作・運転などがあります。最近では、ブルーアンモニアやグリーンアンモニア、グリーン水素やグリーンメタノールなどのカーボンニュートラル関連が多くなっており、世の中の急激な変化を感じています。

2022年7月5日
著 者:小林 幸博(こばやし ゆきひろ)
出身企業:東洋エンジニアリング株式会社
略歴:株式会社日立製作所、東洋エンジニアリング株式会社、有限会社コムテック・クウェスト
専門分野:水素・メタノール・アンモニアプロセスの設計開発、反応器の設計、HAZOPスタディ、化学工学やプロセス設計の教育研修
所属団体:化学工学会
趣味:歴史(国立歴史民俗博物館友の会)


*コラムの内容は専門家個人の意見であり、IBLCとしての見解ではありません

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